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2017年02月09日(木) 
タイトルは、月百姿 猿楽月。目録は「能楽の賀例」(左の下の中)。枠外の御届は、明治廿四年一月十五日印刷、廿五年四月一日出版。

能(のう)は江戸時代までは猿楽(さるがく)と呼ばれ、狂言(きょうげん)とともに能楽(のうがく)と総称されるようになったのは明治以降のことである。
江戸時代には、徳川家康(とくがわいえやす)や秀忠(ひでただ)、家光(いえみつ)など歴代の将軍が猿楽を好んだため、猿楽は武家社会の文化資本として大きな意味合いを持つようになった。また猿楽は武家社会における典礼用の正式な音楽(式楽)も担当することとなり、各藩がお抱えの猿楽師を雇うようになった。間部詮房(まなべあきふさ)は猿楽師出身でありながら大名にまで出世した人物として知られている。
なお、家康も豊臣秀吉(とよとみひでよし)と同じく大和四座を保護していたが、秀忠は大和四座を離れた猿楽師であった喜多七太夫長能(きたしちだゆう ちょうのう/おさよし)に保護を与え、元和年間(1615~1624年)喜多流の創設を認めている。家康は観世座(かんぜざ)を好み、秀忠や家光は喜多流(きたりゅう)を好んだとされるが、綱吉(つなよし)は宝生流(ほうしょうりゅう)を好んだため、綱吉の治世に加賀藩や尾張藩がお抱え猿楽師を金春流(こんぱるりゅう)から宝生流に入れ替えたと言われている。その結果、現在でも石川県や名古屋市は宝生流が盛んな地域である。
その一方、猿楽が武家社会の式楽となった結果、庶民が猿楽を見物する機会は徐々に少なくなっていった。しかし、謡は町人の習い事として流行し、多くの謡本が出版された(寺子屋の教科書に使われた例もある)。実際に観る機会は少ないながらも、庶民の関心は強く、寺社への寄進を集める目的の勧進能(かんじんのう)が催されると多くの観客を集めたという。
また、将軍宣下・婚礼・御子誕生などの大きな祝い事の際、江戸城本丸の南庭で催される能を町人も見物を許された。それを町入能(まちいりのう)と云う。屋根のないお白州で見るため、天候にかかわらず笠が与えられたという。

東京都立図書館のサイトに橋本周延画『旧幕府御大礼之節町人御能拝見之図』が大いに参考になるだろう。
http://www.library.metro.tokyo.jp/digital_library/c…fault.aspx

閲覧数129 カテゴリ月百姿 コメント1 投稿日時2017/02/09 18:20
公開範囲外部公開
コメント(1)
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  • 2017/05/03 16:54
    「さるがく」が「するがく」なんてなっていたので、修正しました。お恥ずかしい。ゴメンネ、ゴメンネ~っ!(へ皿へ)
    次項有
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